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おいたち

歳も歳だし、懐かしい過去を載せてみることにしました。自画自賛あり、あしからず


幼年期

我が家の牛小屋の前、コマを投げているところ、当時は牛3~4頭&馬1頭を労力として飼っており、餌やりなど手伝っていました。
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小学生・中学生

高校時代

高1の時、10km校内マラソン大会で二位でした。 一位は3年生だったので、2年の時は一位になるはず、と思っていたのですが、なれませんでした。

謹慎中で出場できなかったからです。

ちなみに謹慎は計3回、一回目は飲酒、二回目は単車二人乗り、三回目は、また飲酒

通常三回目の謹慎期間は長いのですが、「君は高校に貢献しているから特別に一週間でいい」(生活指導の先生の言葉)
生徒会活動(役職は体育部長:体育祭を取り仕切る)をやっていたのでした。

下は高3の文化祭、岡林信康さんの『私たちの望むものは』を熱唱しているところ
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ステージにはテープが、ただ、一番左はトイレットペーパーのような・・・


浪人時代

まぐれを信じて北大を受験するも・・、親に苦労をかけることになりました。
それならと、真面目に勉強すればいいものを hi05



大学時代

当時、公立では『学費が日本一安い』大阪府大へ進学。入学金1万円、学費は年間1万2千円で、4年間合計で5万8千円しか払っていません。

なぜ安かったのか?当時の府知事が黒田さん(共産党)で、「学生には負担をかけない」が公約だったからです。 それで国立の10分の1、ただ、卒業後は自民党政権となり、国立並みに戻りました。


さて、大学へはボートを漕ぎにいったようなもの、 アイスホッケーもやってみたかったのですが、練習が夜間ということで断念!
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一年間の10ケ月が合宿所生活で、午前5時から2時間、夕方2時間半、そして午後9時から40分の夜トレで、それはそれは厳しい生活でした。
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サラリーマン時代

両親がまだ元気だったこともあり、サラリーマン経験も必要かと、大津町にある会社に就職しました。
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ここでは熱心に働きました。結婚を考えており、親を見返したかったからです。

大学4年の後半で知り合った女性なんですが、親から猛烈に反対されていました。なぜなら、 大阪へ行く前に親から「女は絶対連れてくるな」だったからです。母からは「頼むから別れてくれ」と泣かれる始末
当時は農家の嫁は「近所から」しかも「農家出身」というのが当たり前、『都会』の『見ず知らずの女性』など、とんでもないことだったのです。


遠距離で3年間・・・


ついに結婚

長い道のりを乗り越え、やっとの結婚!
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弟はギターがうまかった、兄弟全員がステージへ


サラリーマンは3年でやめ、母が病気がちだったこともあり、思い切って就農しました。
「ワサビ」をやってみようかと、立野にある東海大学の片野先生に相談に行ったところ「ワサビは農薬をたくさん使います、 農薬や化学肥料に頼らない農業をやってみてはどうですか」

この言葉が、それから先の私の人生を決定付けた、と言っても過言ではありません。

その直後から米を無農薬で栽培し産直を開始、「六次産業」の草分けとなりました。

下は返信用のハガキに使う「料金受取人払」ですが、認証番号が「1」となっています。
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写真は2007年5月23日、がんばる農業賞受賞の際に総理官邸での祝賀会の模様です。 一番右が片野先生、現在は鎌倉の円覚寺にて永眠されています。
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続く・・・



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