日 々 の 出 来 事     

  トップページへ  
日々の出来事 目次へ


    平成20年(2008)5月度の記録


5月 31日(土)  2002年−FIFAワールドカップ韓国・日本大会が韓国・ソウルで開幕。6月30日まで。1995年−青島幸男東京都知事が世界都市博覧会の開催中止を表明。



昨夜から今朝方まで降っていた比較的強い雨も夜明けと共に徐々に上がっていった。家内を送った後は予定していた通りに野菜用のネットを掛けてみたがこれで良いのかそうでは無いのかが良く解らない、今年はいろいろ自前でやって見て、現実を良く知りそして次に生かそう・・・位の気持ちでやっている。

その後はやり残していた小屋用作業台の詰工事である。何せ余り材だから必要な部材はなかなか無い、他の部材を割いて使う事に成る。週末だから隣近所へのご迷惑も考慮し10時を合図に丸ノコを作動させ、使用する。大工さんのようにスムースにはカット出来ない・・・がやっと切り出し、作業台天板のふち板に使用する。出来上がった。ま、こんなものだろう

と同時に郵便物を投函するため、下る。序に若干の買い物をした。取って返し昼にしようと思ったが、今日の取材が待っていた。そのまま今度は仙酔峡へ上る。「開花情報」にも記録したが、駐車場は一杯で、ビックリした。しかし大半の来場者は高岳登山や山頂付近のミヤマキリシマ目当てであろうと思われた。ツツジの後は夏山の登場である。取材の後サッサと下り、やっとお昼タイムとなる。今日は(も)簡単に皿うどんとなった。

休憩もそこそこに今度は小屋内への電気の引き込みをやる。幸い既存の建物の外部にサービス?BOXが設けてあり、そこから取り出すことが出来るので、渡りはFD管を使用して埋設した。ホルソーで穴をあけ取り込んだ。明日は建屋内の引き回し等・・・、だがこの作業、雨天時の為に取って置くかなァー・・・

長かった5月が今日で終わりだ。移住してから7ヶ月が経過した。そしてあの梅雨の到来でもある。


5月 30日(金)  1967年−東洋工業が、世界初となるロータリーエンジン搭載車のコスモスポーツを発売。1431年−フランスの百年戦争の英雄的少女ジャンヌ・ダルクがイギリス軍により火刑。



今日は一日家内が在宅するので朝一の取材は取り止める。朝の諸々を済ませ、小屋での作業を見学させていたが、退屈して来たところで、仙酔峡へ上がる。今日の情報でもお知らせしたようにミヤマはすっかり少なくなっていた。余計な事だが「つつじ祭り」は来週一杯の予定となっている・・・もう沢山の花は無いよ(少ないよ)・・・

お昼から本格的に作業台の制作にかかる。何しろ材料は全て余剰材で賄う予定である為、継ぎ接ぎもできた。そしてすべてをビス止めとした。夕方迄、家内の面倒も見ながら時間一杯使ったが、後1時間程足りなかった、明日午前中で完成するであろう。

裏に植え付けたトマトやキュウリが伸びて来た・・ネット等の設備をやらねばならなくなった。明日やることにする?。





5月 29日(木)  1943年−太平洋戦争でアッツ島玉砕。1953年−エドモンド・ヒラリーがシェルパのテンジン・ノルゲイとともに、エヴェレストに世界初登頂。


自宅敷地内へ(上部から)雨水が流れ込む為、その対策(洪水となる)として、今月始めに溜めマスや排水U字講を設置はしていたが、昨夜の大雨は一時は大丈夫か?・・・と思える程の降りであった。豪雨の部類になるであろう、おまけに11時頃になって、大雨注意報から警報に替わる始末。益々心配になる・・・が致し方無い。何か有っても手の施し様も無いが・・・

洪水監視の為の監視カメラ、設置が間に合わず、仕方無く何度も懐中電灯で確認するハメに・・・・・・がお陰様でその設備が有効に働いてくれたようだ。今朝見たら庭への流れ込みは全く無かった。そして新設置のマスには新しい雨水が満杯に入っていて、U字講内はきれいに洗い流されていた。イヤァー良く降ったな〜、そして設備は良く効果を出してくれた・・と感謝感謝・・・

此れを見届け、少し小雨程度であったので仙酔峡へ取材に行く。この取材を始めてから、上の駐車場に車が一台もいなかった事は今日が初めてであった・・・が誰一人も居なく、何所かの壊れかけたドアであろうか、時折バタンと音をたてたり、視界もあまり無く、ある種だんだん不気味に思えて・・・5〜6枚を収め早々に引き揚げる、帰りの道中でも1台の車とも出合わなかった。小堀牧のウシは元気で草を食んでいた。此処まで来てホツとする。

家内を送り出した後は小屋内の設備(棚の設置や片付け・整理等)に掛るが、暑かった、異常に蒸し暑かった。付いて行けない位であった。(体がこの暑さに未だ追いついていないのであろう)従って休み休みの作業と成る。
ここが一段落付いた所で今度は庭の配置前の区分整備を行う。

LGV局のお婆様が一時体調不良・・・と日記してあり、さぞ大変であっただろう・・・と、お疲れ様でした。




5月 28日(水)  2007年−松岡利勝農林水産大臣が自殺。現職大臣の自殺は現憲法下では初。 1960年−トキが国際保護鳥に指定。


午後からは大雨の予報が出ている為、午前中に何とか庭の低い箇所の、水が溜まる部分を手当したかったが間に合わず又溜まってしまった。

依って外作業は無理、小屋の棚の制作・取付に掛る。取り敢えず安価で進めようと、コンパネをカットして取り付けた。若干濡れていたのでどうなるか?(ビス止めであり容易に取り換え可能とした)しかし見栄えは余り良くない、ま、良いか・・・

夕刻辺りから雨がひどく成って来た、大雨・洪水の注意報も出ているし、裏庭は造成・手入れの途中で有り、こちらも又どうなる事やら??




5月 27日(火)  1987年−小錦が外国人力士初の大関に昇進。 1993年−ふるさと創生事業による一億円純金カツオの置物が盗難。


今日は家内のRと整形でのその後の経過観察日であった。特段の事は無く、一応今回で満了となる。以前からのRを今後どうするか?については別の科の次回診察日にでもご相談を・・・との事と相成った。

その外は特に無し・・・である。 年寄りの夜更かしは決して良くない、よってもう休む事としましょう。明日に希望を託しつつ・・・。



5月 26日(月)  2003年−東北地震発生。1983年−日本海中部地震発生。1969年−東名高速道路が全線開通。


昨夜は何だかんだとやることがあって、就寝は結局24時を超えてしまった・・・が仙酔峡情報取材の為か?5時過ぎには目が醒め、「エイッ」とばかりに起床した。外へ出てみると周りは濃霧であり、雲海を期待し6時前に家を出る。案の定それが発生していた。それは見事であった。

通常は?阿蘇五岳をバックにした画像が多いが(北外輪山側より)、此方からだと雲海越しに北外輪山とその向こうに九重連山を見る事となる。今朝は見えなかったが、先日は菊池の鞍岳やツームシ山までもが良くみえた。

皆さん、此方からの眺めも良いですよ、是非お越し下さい。取材を終え帰路の途中、「雲海と阿蘇五岳(大地)の接点」がこのようになっている事が確認できた。大地(山)に対し雲は絶えず動いていて、何かを鬩ぎ合っているかのようであった。

先日、ご多聞に漏れず私にも「ねんきん特別便」と称する郵便物が届いた。しかし住所変更したにも拘らず、以前の東京の住所径由で転送されて来たのだ。中味を見ると昨年確認した際はOKであったのに、今回の更新記録では加入月数が少なくなっていた。「何やってんだ、バカヤロウ!」  依って住所変更の未受理?と加入月数が何故?減少するのか?を正すため、家内を送り出し、早速社会保険事務所へ・・・と言うよりまずその事務所の所在地を聴聞する為、市の役場へ税の支払いも含め出向いた、ところがどうだ・・・「阿蘇市には保険事務所はありません、熊本です、東が此方の管轄です・・」と。ウーン・・・絶句、

東京を例に出してはいけないのだろうが、比して言へば、地方は住民に対する行政サービスと言うか福祉?行政は特に低いと言わざるを得ない、救済というより、切り捨てる為の策でしか無いように思える。最近出くわした事だが、以前申請していた車の減免措置基準が低く対象外とされ、却下された事、おまけに使用する車の所有者は障害者本人に限ると言う矛盾した判定基準を合わせ持っている点、更には駐車禁止除外車適用の申請では、「それを受けるには等級が不足である。但し熊本県内の使用に限り」「歩行困難者使用中」と言う表題の標章ならば発行出来る・・・、但しこれを使用する場合は使用者の連絡先、用務先をその都度読みやすく記載した紙と共に車の前面等見やすい箇所に掲示しなければならないとの事、それじゃー・・・(個人情報保護法の観点から違和感あり・・・)

必要に迫られ、この標章を先日使ってみた。家内と仙酔峡へ行った際、提示するも、「車イスの方だけです、歩行困難者等は対象外です・・歩いて下さい?と言って断られる始末、歩行困難??・・・阿蘇ではあのマークは車イス専用マークなのか?障害者マークではなかったのか?、

更には今月送付を受けた住民税通知書によれば、所得は前々年と変わって無いが、阿蘇は東京に比して高くなった事、それにいちいち有料のゴミ袋を購入し細かく分別使用しなければならない事(特に燃えないゴミの分別では「ビン、カン類」は良しとしても、「小金属、ガラス類」(袋ブルーで別途)や「乾電池・蛍光灯類」「衣類」「ペットボトル」等、それぞれに分別との事、一年掛ってもあの袋に一杯にはなりませんよ。だからそれがイヤならセンターか役場まで持って来い・・と、・・・、・・・。(収集袋に入れてならば一緒の事では・・・)、いずれも対東京での比較事象です、念の為、同じ日本国民として住む場所でこうも違うのか・・・

高尚な事を言えば、阿蘇に移り住んで人口を増やし、地方税を納入し、(+2人だが)少なからず貢献しようと志高く?やって来たのだが、優しい友人が沢山出来ている事、そして支えて戴いている事は東京なんぞより遙かに高く・・・、それ以外、何か良い事?有ったかなァー・・・、自然が豊か過ぎる位ある事も良い、それに・・・、そんな事より東京が良すぎたのか??

東京に比して財政状況が?・・・イヤイヤ、財政が困窮であるのならば、まず足元だ、朝から新聞読んだり(出勤する前か昼休みにでも読め・・・)、業務を譲り合ったり、押し付けたりするような人は要らないでしょう?だから、そう言う浮いている人員は削減するか、あるいは・・・、財政健全化(ムダや余剰の無いように・・少なくとも民間の比では無い)を進める事も一施策では?(何れは再建団体か?・・・)



5月 25日(日)  2002年−台湾海峡の上空でチャイナエアライン611便が空中分解。1976年−新幹線の乗客数が10億人を突破。


日曜日だから混雑を避ける為、仙酔峡へは朝早く出掛け取材する。此処だけは何時もそうだが、ガスが切れていた。依って視界がある。・・・が霧雨風の・・・、早々に引き揚げる。何処かの団体さんが登山の出発前打ち合わせをやっていた。

今日は何時ものように家内のお供から始まり、はっきりしなかったお天気も徐々に回復?し、良い日和となった。

午後は一番に、先日Tばやしさんから頂き、植え込みがのびのびになっていた鉢植のモミジを(根が廻って抜けない為)、鉢を割って植え付けた。一つ肩の荷が下りた感じ、その後は小屋の整備が急務であるが後回しで、庭の整備に掛る。高低差が結構ある為、何かで区切りが必要と判断した。その準備を行う。

それから北側のデッキ取付に関し、余剰材の確認も行う、こちらは不足材が沢山ある事が分かった。もう一つは小屋の棚材の準備、そして取付と整理、火床テーブルの勘案と手配(もしくはDIY)・・・等、必須事項が目白押しである。

何方かが曰く、「ボチボチやれば・・・そんなに死に急ぐことは無いよ!」・・・この言葉に助けられて・・・もいる。



5月 24日(土)  1926年−北海道の十勝岳が大噴火し、死者144名を出す。 1980年−JOCがモスクワ五輪ボイコットを最終的に決定。   


家内が出掛ける頃までは雨であったが、その後止む。暫くは降りそうに無かったので、取材に行く、此処「西小掘地区」から見るとガス(霧)が掛かり全く見えてなかったが、現地(仙酔峡)ではそれは無く、視界良好であった。しかし岩場の方は虎ヶ峰迄でそれより上はダメであった。 

お昼からではあったが、よく降った、可也の量だろう?裏庭が一時は半分ほど冠水していた。お陰で庭全体のレベルが確認できた。色々参考に成る、

昨日の雀の侵入防止用金網は購入したのだが、この雨では何ともならない、明日以降である。幸い雨の峠は越えたようだ。



5月 23日(金)  1995年−長良川河口堰が本格運用を開始。 1981年−陝西省で日本国外では既に絶滅したと思われていた野生のトキ7羽が発見される。   


昨日取り付けた雨凌ぎ用の波板部分に雨樋を付けた。樋受け金具の取付角度がなかなか難しかった。2.5m程の長さであったが、既存の部分に延長する形で取り付けた為、上部の方に成り波板の下部と余裕がなく少し手こずる。

今日の仙酔峡行きは、家内を連れ9時20分に家を出た。この時間混雑等は全くなく、P内の警備の方も少し拍子抜け?の様相であった・・・が相変わらず人は多く皆さん夫々思い思いに散策されていた。見たところ約半数の方が携帯でパチリ(カシャ・・)である。(ご婦人が多いが・・・)

今日の若干の作業を終え一休憩中何やらガサガサと音がする、辿ってみると、どうやらストーブの方である、可哀そうに雀が一羽落ちていた。最初は未だピクピクしていたが、飛べる余力も無く生命を絶やした。これからも有り得る事ゆえ、上部全体を金網ででも覆わなければ?・・・



5月 22日(木)  1960年−チリ地震発生。翌日、日本でも津波の被害。   


9時過ぎに家内を送り出し、扨今日は何をするか!と・・・思案迄はしないが、デッキ上の防雨用の波板を追加すべく、まず押え用のタル木に防腐剤を塗布する。そんな時LGV局がフラリ?とお出でに・・・。手には何やらお持ちで・・・、先日調理された「豚の軟骨の煮込み」を沢山戴いた。

夕食時に食したが、家内も今日のメインには手を付けず、まずコレ(中央)であった(周りは今夕の献立で魚のから揚げ、白菜としめじのソテー、南関アゲのミソ汁等)。上手く表現できないが、こってり味で濃厚であったが、きつく無くスッキリとしていた、軟骨と言えどスジ肉その物で軟骨はトロトロ、(美味しかったが量が有るため分けて食べる事とした)。言われるように煮汁は一旦全て捨て、再度味付けされたとの事、正にその手間が生きていた・・・と思われる、風さん美味しかったですよ、そして宮崎の「じっちゃい」さん、私もお裾分け?を頂戴しました、御馳走様でした。

その後仙酔峡へ取材に行く。未だ10時過ぎだと言うのにもうロープウェイ直下で混雑していた。下のPへ車(軽トラ)を止め、歩きながら画像を収集

I・センターをちと覗けば管理員のS梨さん(今日のミヤマ情報に画像あり)、今日は接客中では無かったので声掛けた。此処周辺の出来事等を携帯に撮っておられ、次々に見せて頂き、幾つかは非常に興味深かった。(例えば凍りついた仙酔滝を登攀中の画像等)

少々長居となったが、再会を約し急ぎ(急坂を)帰路に付く。

おっかなビックリでポリカ波板を青天デッキ上に3枚追加した(出入口ドア開閉時の防雨用)。 それからデッキ部屋に照明を取付る。そこまでで家内が帰って来た。今日は塗装工、カメラマン、大工(大八か?)、電気屋さん・・・と色々の作業をした。少し疲れたが夕食時に、何時に無く家内の方から幾つかの話題切り出しがあり、驚くと共に安堵するやら・・で疲れも飛ぶが如く・・・傍らではシランが咲き出していた。



5月 21日(水)  小満。  1999年−日本初のトキ人工繁殖に成功。   


今朝は仙酔峡取材から行動を始める。矢張りシーズンならではの光景が見られる。早起きは・・の何とやらで素晴らしい眺望に出くわした。(岩場とミヤマ

昨日あれほど釘刺した筈であったが、日が高くなってもやって来ない。依って残りの芝刈りをやり始めた所へ奴が現れた。「遅くなりました・・・」・・・・「遅すぎるわい・・・」

早速続きに取り掛かるがゆっくりしたもので、途中でお昼と成り「床下の樋止めの金具を取りに行きます、ついでに昼もしてきます・・・」 おいおい今日中に終わるのか?コレ・・・とボヤキも出る有り様。

そんな事だから、見ておかないと大変な事になりそうで芝刈りは後回しとなる。そんな折、携帯に「Y田です、立派なHP作ってるねェー・・・」と、どちらの何方か記憶を検めるまでに10秒程を要した。実はO栗さんから小生の事を聞かれたらしい、よってHPからメールしたが、モリモト??さんとか言う人から返事が来たと言うのだ、よって真意の程を確かめようと携帯に及んだと言う事であった。

Y田さんへ、私のHP(トップ画面にも)にはEメールのアドレスは記載しておりません、又、アウトルックの方も確認しましたが受信は有りませんでした、アドレスを間違えられたのでは無いでしょうか??事の顛末を是非この掲示板でご連絡下さい。

残工事は夕刻4時過ぎにやっと終わった(片付け、清掃、エヤー吹かしそして一部雑巾がけも含め)そして苦心の縦樋はこのようになった。(沢山のジョイント部が有るため今後も目が離せない。



5月 20日(火)  2012年−日本で金環食がみられる。 1978年−新東京国際空港(成田空港)が開港。  


火曜日は何時ものように家内のRの日、運動始める前に主治医の診察で、既にここまで回復しているのでそろそろ・・・ですね、との事。次週が整形外科の予約日となっているのでその際のX線確認で両科で判断しましょう・・・となった、最終段階に来たようだ、此処まで約100日である。

受療後、幾つかの買い物等に立ち寄り、帰り着いたは正午を少し回っていた。上々のお天気なので昨日の続き工事になるか?と気にしていたがとうとう来なかった。夕刻連絡がきて「明日の4時頃行きます」と、・・・1時間で終わる?「明日一番で来い、何考えているんだ!」・・・

お昼からは、工事にいつ来るのかと待ちながら今年2回目の芝刈りを行う、良くもまァーこんなに短い期間なのに伸びるもんだなァ〜、と言いつつもやっと半分終わる。

今日は所用にて仙酔峡へ上がれなかったので明日は何としても行かねば・・・



5月 19日(月)  2005年−気象庁が約100年後(2100年頃)の気候を予測。全国の年平均気温2−3度上昇。  


昨日で終える事に(取り敢えず)していた「仙酔峡・・・」の情報、何となくピークを過ぎたところ?を見てみたくなり、早朝に出掛けた。思った通り車の数10台弱、こんなものか?と思えるほど少なかった。台風やお天気の性も幾らかある・・ものの、残念な寂しいような気も・・・

しかしお昼前に町へ出た際は何台もの大型バスと上下線ですれ違った・・・ところを見れば今日も午前中は人も多かったのだろうか。

お昼からは例のデッキ工事の際に取り外した縦樋の復旧工事にやっと来られた。余りにも残工事に取り掛からないので朝っぱらから施工店に対し苦言を呈したのである。午後は雨が予想されていたので、午前中にやれば良いものを・・・降り出した雨は中々止まず大変お気の毒でもあった。しかしその雨が影響してか、全ては終わらなかった。



5月 18日(日)1995年−天気予報が自由化。気象予報士による民間天気予報が始まる。 


取り敢えず今年の「仙酔峡ミヤマキリシマの開花情報」は今日で終わりにしようかと考えている。良く続いたものだと我ながら感心している、(それだけ暇?ってことか・・・と聞こえそう)。

だが今日の仙酔峡道路は大変な混雑であっただろう、確かめまではしなかったが、早くに渋滞3kmと随所に表示がなされていた。よって今日もそれを予想して朝6時に仙酔峡へ上がった。

上の駐車場に車を止め取材を始めようとPを移動中こんなに早くから見慣れた警備の人が来ていて、「登山の方は下の駐車場へ車を移動してください」(この事はそのPに立て看板がある)と頻りにお願いしていたが・・・しかし見ている限りでは移動する車は無かった様に思う。(登山グループが早くから長時間占有しているのだ)

此れも大混雑の一つの大きな?要因であると良〜〜く分かった。それともう一つは・・・止めておこう、直ぐ調子に乗り、言いすぎるキライが有るようなので・・・止めて置く。(チャックである) それより今日の景観は素晴らしかった。そして5万本と言われる此処のミヤマも年々こう言う株も増えていると言う現実も忘れては成らないようだ。

日曜日は恒例となった家内のお供でもあった。これはAMで終わり、有り合せの材量で昼食をササッと作り美味しく?戴く。

午後はデッキ室用の備品を2Fから運び込み、洗濯用竿の取り付け等をやり、又しても伸びている芝を刈った。グルリと見渡せば1〜2時間で終わる様な量ではない、やってる最中に声掛け訪問者が2組も有ったり・・・で捗る筈がない。本腰入れが必要だ。




5月 17日(土)1985年−「男女雇用機会均等法」が成立。  1889年−府県制・群制交付。

今年から始めた「仙酔峡ミヤマキリシマの開花情報」は愈々終盤を迎えようとしている。昨日・一昨日と上の方が渋滞していた為、取材する事が出来なかったので今朝は早く出掛けた。早朝6時過ぎにも拘らず可也の数の登山客や観光客であった。皆さん殆どが中年以上でありお元気そうで、早起きなど苦になるような人達では無かった。帰る際一枚収めた

先日竣工したばかりの倉庫兼作業小屋は雨樋こそついているものの縦樋の後は地表に流すようになっているので、今日はこの先を繋いで配管を埋設し排水マスまでもっていった。しかし今日も暑かったなァー、

昨日よりライブカメラの一つがPC再起動の折、画像が出なくなり、早速LGV局が異変?に気付かれサポートに着てくれた。ある部分のチェックが外れていたようだ。ウ〜ン、難しいなァー、

今日も暑かったが目一杯動いた・・・よってアレが美味しく戴けた、そうそう忘れるところであった…お昼前にチョイと下まで買い物に出た間にTばやしさんがお出でになっていて、モミジの鉢植えが御不用になられたのか、あるいは・・・玄関前に届けてあった。程無くして電話があり確信できた。



5月 16日(金)1975年−田部井淳子ら日本女子登山隊が女性初のエベレスト登頂に成功。  1689年−(元禄2年3月27日)松尾芭蕉が弟子と共に「奥の細道」の旅に出発。


お天気が続いていて何よりである。今日は月一の定期診察日の為、「又沢山待たされるだろうな〜」と思いつつ行ったが、正にその通りとなった。予約時間前20分位に受付済みと成ったが、それから延々1時間半待ちである、全くどう言う事になっているのか不思議で仕方が無い。
どの科を受診しても大なり小なり同じパターンである。但しリハビリと歯科は予約通に事が始まる・・ことは付け加えておかねばならないだろう。

そんな事で投薬を受け病院を出た頃はお昼を廻っていた。此処へ帰り着く前に、昨日の渋滞の件が頭を過り、「もうこの時間ならば大丈夫だろう」と、取材に行く・・・が考えが浅かった・・と言わざるを得ない、又しても同じ場所からこの時間帯でも渋滞は続いていた。依って家内も同乗している事だし、2〜3枚収め仏舎利塔でUターンし、我が家に辿り着く。時すでに14時半を廻っていた。

若干の休憩の後、裏庭に積んであったスタッドレスタイヤや備品等を小屋に収納した。少し庭が広く成ったかな?



5月 15日(木)1974年−セブンーイレブンの日本1号店が東京都で開店。  1972年ーアメリカから沖縄が返還される。


昨日発見したことだが、梅の木の新芽付近が何故か萎れ気味なので近くで観察したところ、灰色の「アブラムシ」が沢山へばりついていた。昨夕購入していたマラソンを朝一散布する。序にお昼頃にはサクラにも散布する。

その外小屋の棚として、スチールのパイプ棚が余っていたので取り敢えずこれを組み立てて代用する事とした。

小屋廻りやベランダ前に、ある程度野芝を植え付けたいと思っていたが、今年は既に植え付け時期を失しているので「どうすべーか」と思案中。又植木類についても時期を失した物が20株以上あって(仮植中?となっている)これ又頭が痛い・・・。

一番の手が掛る作業が、次の冬用の薪の整理である。まず保管場所の設置が急務であるが・・・

そしてお昼から北側の庭部分を草取りしたが暑かったなァー、



5月 14日(水) 1999年−自動車のナンバープレート(自動車登録番号標のみ)の分類番号3桁化が全国で行われ、レンタカーと駐留軍車の希望番号制度を実施。  


週中で由一朝起きのプレッシャーが無い曜日であったが、何を間違えたか何時ものように起きてしまった。裏のデッキも出来た為これからは自分の出番でアレコレ思いは巡るが、今日は家内が居る為なかなか捗らなかった。アレもコレもやることは一杯あるのだが。

気合いを入れ作業に掛るが、生憎パラパラと雨が降る、・・・そして上がる・・また降る・・・等、ヤル気を削がれたがほんの少しの土入れが出来た程度で後は家内のお相手を余儀なくされる・・・。

そんな事だから昼からの外作業は中止止む無しとしたが、取材の件が有り、AC変調気味(面)を早く正常化し、家内と共に仙酔峡へ。今日のこの時間が経験上一番の人・車だった・・・と感じる。ミヤマキリシマは今が見頃?・・・と言ってもよい位見事である。皆さん早い目にお出で下さい。




5月 13日(火) 1987年−JR東日本が国電に代わる呼称をE電とする事を発表。 1972年−大阪・千日デパート火災(死者118名、重軽傷者78名)。 翌年に大洋デパート火災が発生(死者103名、124名が重軽傷)。 


今日は定例のR受療日であり、朝から大津へ行く。序に倉庫で使用の電気資材を調達した。DIYでやってみようと決めたのだ。ただ最終的にはチェックを受けねば成らないだろう。

Rそのものは通常通り終わったが、幾つかの買い物や振興局、警察、市役所等々に用件があり、やっと返り着いたら、14時前であった。その際、家内の昼食は車中にて弁当で済ませてもらった・・・が半分程度で、もう良いと・・・早く帰ってやれば・・・と若干悔やむ。

昼?休息をさせ、私は庭作業(レベル調整)を少し遣りかかったところでお目覚めになられた為、今日の必須事項の最低の事だけ消化し、「それでは今から仙酔峡でも上がってみますか」と・・・ これまではお昼辺りの取材が多く、此処の所、何時来ても満車だなと思っていたが今日は楽勝に「花酔い橋」の真前に止められた。だから少しの推測を入れると午後3時辺りからだんだん少なくなるのだな?・・・と言う事も分かった。

今日の仙酔峡は清々しく空気も澄んでいて、空が秋の様であり、鷲と鷹をズームしたが、帰って見たらピントが・・・。



5月 12日(月) 1984年−NHKがテレビ衛星放送の試験放送を開始。 1979年−初の本州四国連絡橋として大三島橋完成。 1898年−キューリー夫人がラジウムを発見。


今日が最終日に成るであろう工事が朝から開始された。まずサイディング部のコーキング、室内の詰工事、小屋の一部のモルタル仕上げ、片付け、残品の整理、清掃、掘削部の埋め戻し、最終掃き掃除等が行われた・・・が完全な終わりでは無く、隙間部の目地当てや縦樋の改造設置、床下の清掃等は未施工であり後日の事とした。基礎の施工から今日で丁度1か月である。

その外、建物が出来た為、ACの復旧は配管を延長し、室外機を外へ出して、これも本日無事終える事が出来た。何時もお世話になっている電気工事会社のN川社長と従業員さんで、この家の電気工事(通信系工事も)全ての施行者でもある。

仙酔峡は今日も多かった・・・が車は一番上までスムースに上れた。虎ヶ峰より上はガスの性で視界は開かなかった、(正午過ぎ・・頃)。

ここ2〜3日私のHPへのアクセス数が急に増え、一日当たり昨日が103人と言うか、回と言うか?今日もこの時間、既に102人であった。



5月 11日(日) 1970年−松浦輝男・植村直己がエベレストに日本人初登頂。 1955年−国鉄宇高連絡船・紫雲丸が第三宇高丸に衝突し沈没、修学旅行中の児童ら168人が死亡(紫雲丸事故)


雨は止んだが朝からドンヨリ・・・、九重も高岳も視界無し。ガスが深く立ち込めていた。今日は日曜日、何時もの家内の運転手兼見守り役から始まる。

それが終わり次第仙酔峡へ上がる(12時前)。流石に今日は多かった、取材を始めてからでは一番では無かろうか?上の駐車場には入れなかった、だが気温も低く、ガスが立ち込め視界も悪い為か、長居する人たちは登山者位で観光の車は入退場の回転が速かった?ように見えた、よって渋滞にはなっていなかった、但しこの時間帯ではの取材であるが・・・、

ミヤマキリシマは現在5〜6分と言ったところか?株によってまちまちなのである。満開に近い木もあれば蕾がやっと膨らみ始めたのも有る・・という具合に。だが来週辺りが一番の見どころになると思われる(私の浅はかな推測では・・・)。

先週NAKAさんに頂いたレタスの苗はどうやら活着したようだ、今度こそ・・の思いである。そして又昨日LGV局から教わった「トマト、ナス、キュウリ」を植え付けた。傍らのジャガイモの葉が茂って来た。我箱庭のような菜園はこうなった。




5月 10日(土) 1987年−帝銀事件の死刑囚平沢貞道が獄中で病死。


昨日からずっと降り続いている雨は今朝になっても雨足は衰へず少し纏まった量になったと思うが・・・・しかし今朝は寒かった、5月になっても・・・?よってストーブに火を入れた。

雨天であったが仙酔峡の人出が多くなる前に、・・・と今日の「ツツジ情報」の取材時間を早め、午前10時頃に行くが、このお天気と時間帯の性か駐車場は尾根側の一列だけで空いていた。皆さんの殆どは車の中よりツツジを見ておられたようだ。それくらい雨も降っていた。此処まで登って来る道中には渋滞を予想してか仮設のトイレが2か所設置されていた。多くなるのはこれからのようだ。

午後からNAKAご夫妻、風さんと共に、本来なら今日はデッキと小屋の完成小宴の積りであったが、工事がまだ継続中で片付いてもおらず、それは次回とし、四方山話で時を過ごした。一日中雨であった。少し飲みすぎたかな?




5月 9日(金) 1974年−伊豆半島南端でM6.9の地震、死者30人。。1948年−日比谷公会堂で「母の日大会」開催、以降5月第2日曜日が母の日に。


何時もの始業時間になっても工事の関係者は一向に現れず、今日は又ダメか?・・・と思ったところへやはり1人でやって来られた。外壁のコーキングや雨樋の取付、等が施工された。午後からは雨の為、外回りを止め、部屋の内壁の仕上げ等が行われた。

他には特記無し。裏庭のイワツツジが雨に濡れて奇麗だ。



5月 8日(木) 1980年−世界保健機構(WHO)が天然痘の根絶宣言を行う。1978年−イタリアの登山家メスナーらが初のエベレスト無酸素登頂に成功。


今日も良い天気だ・・・どんな一日に成るか・・・早速8時過ぎから工事が始まった。果たして何人来られたかな?・・・と思ったが3人がキッチリ来ておられた。会社でどんな手割になったのだろうか? ま、それは良しとして早速各所の詰め工事が行われた。階段外板塗装目地詰め内装板張りドア周り化粧工事(材料加工)手摺工事等が進められた。

家内は今日が木曜日なので、約1週間ぶりにデイへ行く。何時もの時間に今日もお二人が迎えに来られた。行ってくれたお陰でこの先、気にせず動く事が出来た。

工事の方は順調に進むので今日の仙酔峡取材は早めに行く、と言っても高々11時過ぎでは・・あるが・・。

他方で手が足りないのか?大方の工事が済んだ為なのか、明日からは一人だけ残って2人は他現場へ行くそうだ、未だ3人が十分にやれる量が残っているのに・・・だ。掃除も後片付けもみな1人でやれというのか?昨日現場を見て残工事量を確認されていると思うのだが・・・??



5月 7日(水) 1946年−東京通信工業(現在のソニー)が設立。1975年−樺太・千島交換条約締結。


昨日に続き、朝からスッキリ・・・一日中晴れていた。連休も終わって大工さん達も元気に工事を開始されたが、午前中は家内のRが予約してある為それをまずやる為大津へ行く。状況としては、骨折前とほぼ同じ位まで可動範囲が広がってきたようである。今少しの頑張りか?

何所へも寄り道せず11時には帰宅する。3人の大工さんは各々が黙々と詰めの部分をやっておられた。「今日中に終えろ」との指令らしいがとてもそんな量では無い、思うところ未だ後2日は要するだろう。そんな事で夕刻班長さんがやって来たが、出来を見られ・・・「・・・」、皆さんも「・・・・」、でトントン、トントン・・・

家内は午後からの活動に参加すると言うので、今日はN川さんが遠回りをして?迎えに来て戴いた。

工事の感激を縫って仙酔峡へ上がる、思わぬ事に今日も車が一杯であった(別ページでご確認あれ・・・)皆さん良くご存知のようで・・・(ミヤマはこれからが見ごろを迎えるのだ)。

デッキのステップも付き出した、最終段階である、今日の終わりはこのようになった。




5月 6日(火) 立夏。振替休日。1994年−英仏海峡トンネルが開通。1951年−現行のラジオ体操第一が放送開始。


朝からスッキリ晴れていた。湿度も少なく気持ちの良い一日では無かっただろうか?大型連休(世間一般では・・・)の最終日で有る為、仙酔峡の取材を早め9時から出掛ける。幸いこの時間であれば未だ駐車場は余裕であった。昨日の雨模様のお天気の性か?今日のミヤマキリシマは一気に花開いたようである。花越しの鷲ヶ峰・虎ヶ峰

ここからの眺望も良かった、九重連山(稲星山、久住山、扇ヶ鼻、沓掛山、(硫黄岳)等の山波、そして一番端に湧蓋山)がクッキリであった。


お昼前ライブカメラ不調に付きLGV局のサポートを受ける。午後は建築中のベランダに防腐塗装の残り部分を行う。
今日まで工事はお休みであったが、明日よりまた再開される・・・も今度は此方が休み明けのR受療日の為午前中留守となる。この工事何となくダラダラの感は否めない、サッサと終えて欲しいものである。



5月 5日(月) こども日。1988年−日本テレビがエベレスト山頂からの衛星中継を放映。。


朝のうちは小雨であったが、暫くして曇りとなる。予報通りでは無く、終日小雨、霧雨?が降っていたが大した事は無かった。その合間を縫って建築中のベランダの木部分に防腐塗装を行う(補修的塗装ーキシラデコール)。

お昼に社時代に交友があったO栗氏がJRで熊本より訪ねて来られた。氏は、現在神戸在住で法事の関係から1〜2日前から来ておられた様だ。私と連絡が取れたので一日滞在を伸ばされたとも聞いた。昨日連絡があっていた。社の関係では最初の訪問者となった。態々嬉しい話である。そしてお土産をドッサリ・・・、到着時刻頃はさして天気は良くなかったが、雨では無かったので其の儘仙酔峡まで上がる。ここで記念の一枚

このお天気の性か?混雑は全くなく「此処に来るのはもう何年振りか?分らない位だ」・・・と。勤務時代の話やそれぞれのその後?の出来事に終始・・・、熊本は生家があるとの事で再会を約束し短時間のアイボールで車中の人となる。客人の送迎の際、57号線に出たが昼間っから凄い渋滞であった。話には聞いていたが、ここまでとは・・・ある種、驚きでもあった。

今日の高岳はその様相を目まぐるしく変化させる為、動画には”もってこい”だと思ったが流れを中々捉えきれなかった。




5月 4日(日) みどりの日(2007年−)。1936年−阪神タイガースの藤井勇がランニングホームラン(日本プロ野球初の本塁打)。



子供がいると朝の始まりは早い、と言ってもたかだか7時過ぎで有るが・・・何時もに比べ賑わしくモーニングタイムを迎える。こう言うのも偶には良いものだ。

折角セカンド達が来てくれたので今日の集会はお休みさせて頂いた。さて、お天気は上々である、家で燻っててもしょうがない・・・阿蘇の雄大さを満喫する為、ドライブでもしましょうか?と出掛けた。
行き先は大観峰であった。

トップシーズンならではの人出であろう、車はPに入り切れず上下の路側帯も一杯、他にも大型のデコッている車も含めバイクが5〜60台以上(派手な衣装と顔・形が派手な?お兄さん、お姉さん付き)が自慢げに・・・、

皆さんこの大眺望を目の当たりにして”ウワーッ”やら”スゲーッ”等・・・何度も聞いた。だが少し風があり、それが下から吹き上げる為、そこらの砂塵を巻き込み、大方の皆さん目に入っていたようでお気の毒でもあった。勿論私も・・・

記念撮影をして(もう一枚)早々に内牧径由を帰路としたが、57号線の熊本方面はこの時間帯でも相当混んでいた。

一旦帰り、皆で早めのお昼を済ませ、息子家族はミルクロード径由を帰路にしようと帰っていった。何時もの事だが帰った後のこの虚脱感?は・・・??

そんな事で午前中留守をしている間にNAKAさんがレタスの苗を届けて下さっていた、その連絡を帰る途中の車内で受けた。しかし昼間は結構暑いので夕方になり、日陰になったところで植え付けた。前回の物は鳥などに全てやられてしまったのである。今度こそ・・・

今日も風さんは動画カメラの管理でお昼もそこそこ・・・で頑張っておられたようだ。



5月 3日(土) 憲法記念日(1948−)。2000年−佐賀で17歳の少年が福岡行きの高速バスを乗っ取り、乗客1人を殺害(西鉄バスジャック事件)。


今日から工事が中断しているので、少しだがゆっくり出来た・・・がセカンド家族が休みを利用しやってくるのでそうもしてはいられない、一部屋はシッカリ空けておかねばならない。幸い倉庫が出来た為、ほんの少し余裕が出来た・・・かな?

仕様も無い書き込みが有り、とうとう遣られたかと憂鬱になり掛けていたが、LGV局により、解決できた。


意外と早く(予告より)孫達は到着した。一部ミルクロードを利用して着た様だ。一休憩の後、買い物序に仙酔峡へ上がる。矢張りシーズンとあって、車は多く駐車場整理員まで出ていた。運が良く?、一番上のPのしかも花酔い橋の近くへ止める事が出来た。ラッキ−!!ツツジもかなり咲き始めた。しかもお天気はこの上無い素晴らしさで、何の遮りも無かった。

孫と家内の手を引いて仙酔尾根まで登る。孫達も元気に歩いた。赤ガレ谷がその荒らしい姿を見せていた。その外九重連山鷲ヶ峰等がクッキリはっきりしていた。

余りの暑さにライブカメラも参っているだろう?と影を作ってやる。




5月 2日(金) 1977年−大学入試センターが東京・駒場に設置。1920年−上野公園で第一回メーデー開催、5千人参加。


今日も朝から工事が開始された、意外と時間が掛るものだ。ただ板材等で囲ってしまえば良しでは無い・・・と言う事をこの度は良く理解出来た。雨水等の浸入防止もキチンと金物で手当してある。その外防水シートの取り付け波板のスキマ対策等も施工されていた。

今日は家内の方、本来はDには行かない曜日であるが、「利用者仲間のお一人が100歳を迎えられた事を祝って、ケーキ作りをみんなでしますから・・・」とのお誘いに乗り?出掛けて行った。

9時半頃Y電気の社長自らもA/Cの復旧に来られた、曰く「デッキの上等に置かず、パイプを伸ばしてでも外部に置くべきでは・・・」とのご指導?により、そういう事にした。

お昼からは家の北側(玄関側)の斜面がスギナで覆われていて見苦しくもあり、肝心の芝が見えなくなっていたのでそれを取り除いた。今年最初の刈り払いとなる。デッキ工事の今日の最終段階はこうなった。

本工事中の工務店さんは明日より暦通りの4連休との事。片付けに時間を掛け、スッキリされて帰って行かれた。そしてお願いしていた小屋の方もやっと片付いた。




5月 1日(木) 1951年−全国9電力会社(北海道・東北・東京・北陸・中部・関西・中国・四国・九州)が発足。 1931年−ニューヨークのエンパイア・ステート・ビルディングが完成(102階建て高さ381m)。


今年も早5月を迎えた、阿蘇へ来て丁度半年が過ぎた。早い!と言う感じが強い、移住して感慨に浸る時は余り無く、何時もバタバタしているような気がしてならない。この先少し時間をとってこの半年を振り返ってみたい・・・

二つの業者さん、どちらも今朝は着工が早かった。雨の降る前に・・・・やろうと言う考えだったのかな?初めの内は10時半頃にポツポツときたので「早まったな・・・」と思っていたが、本降りには成らなかったものの雲行からして早晩降り出すこと間違いなしの状況ではあった。

そんな中、埋設管の埋め込みを午前中で終えたO谷工業さんは片付け、手直し等をやり帰って行った。法面の復旧工事もキッチリ終了した。

降り出す前になんとか屋根を葺いたので、濡れずに床等の工事がその後も続けられた。又取り敢えず屋根をしない個所はブルーシートで覆って雨よけとした。その甲斐あってか夕刻までに床がほぼ出来た。

此れを受けて一時取り外していたA/Cの再接続・設定を依頼した。明日一番で来るそうである。

尚、忘れていた訳では無いが、あの「じゃがいも」の芽が全て出揃ったので紹介する。随分後先があるものだ。

 

トップページへ
日々の出来事 目次へ

diary0806.htmlへのリンク